コントへ捧げるラブレター

主にDVDで観たコントの感想を書きます

アニメ「けだまのゴンじろー」から見る、ギャグ漫画におけるキャラクターの関係性

 

 

 今日はコントじゃなくてギャグ漫画の話。 

 

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 先週(6月1日)、初めて観たアニメ「けだまのゴンじろー」。

 

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 純粋にギャグアニメとして面白かったので、今日(6月8日)も10時すこし前からテレビの前で待機して、観た。

 

 プリキュアみたいな変身シーンとか、怪しいおっさんが何度も変装マスク剥がすところとか、糸電話を無線にみたてて話すところとか、もう文字にしたら勿体ないくらい面白かった。

 

ch.ani.tv

(↑あにてれで配信してる)

 

 どうやらこのアニメ、ソニーの子供向けプロジェクトの一環として、コロコロ編集部とタッグを組んで作っているものらしい。どうりで映像も凝ってるわけだ。

 

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 小学生の頃、兄が買ってきたコロコロを借りて読んでいた。

 でんぢゃらすじーさん、ケシカスくん、スーパーマリオくんは今も連載しているらしい。

 コロコロのギャグ漫画は本当に寿命が長い。ジャンプだと単行本二〇巻くらい連載するとギャグ漫画(コメディ)としては長いほうだ。ちなみにギャグマンガ日和が15巻、ピューっと吹く!ジャガーが20巻。一方、スーパーマリオくんは現時点で54巻まで出ているんだとか。すげえな。

 

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 ギャグ漫画って、ツッコミキャラとボケキャラの関係性をどう解釈すれば良いのかわかりにくいところがある。

 

 特にコロコロにおいては、 

「非常識でなにを考えているかわからず(絶対的天然性)、時には人間ですらないボケのキャラクター」

と、

「常識的で読者目線に立ったツッコミのキャラクター」

の二人が主人公として登場し、前者が後者を「対象化」することで成り立たせているものが多い。 

 

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 というか基本的に、そうでないとギャグ漫画は成立しない。ボケが絶対的天然性を失えば、つまりわざとボケているものとして描けば、ギャグ漫画としての世界観がぼやけてしまって、なんのためにボケているのかわからなくなる(敷いて言えば、かまってちゃん?)。

 そうでなければ、読者を意識して、読者のためにわざわざボケていることになり、それは、登場人物(を描く作者)が読者よりも優位に立っているという構図をうみだす。そんならもう、僕たちはギャグで笑えない。ばかばかしいねって笑ってたけど、笑われてるのは僕らのほうだった、って。

 

 だから、キャラクターどうしの関係性をしっかり描こうとすると、それは「シリアス回」になる。でも来月からはまた何事もなかったかのように、ツッコミキャラの迷惑なんて知ったこっちゃないという風に、破天荒に振舞うボケキャラ。アイデンティティの一貫性に欠けるのもギャグ漫画の特徴だ。

 ギャグ漫画の二次創作が比較的少ない理由は、単に素人(=読者)には作者のようなギャグが思いつかないというだけではない。ボケの行動が一貫しなさ過ぎて、可能性に充ち溢れすぎていて、逆に想像がしづらいのだ。

 

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 そして「けだまのゴンじろー」の話。

 

 この作品は、ボケ(ゴンじろー)とツッコミ(マコト)という構図を踏襲している。しかし通常と異なるのは、基本的に二人が同じベクトルを向いている、というところだ。

 

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(↑やじるしが大きいのは、能力=可動性による干渉力の高さを表す)

 

 つまり、「けだまのゴンじろー」においては例外的に、ツッコミとボケが対峙しているのではなく、ツッコミとボケが(日常的かつ非合理的な)世界と対峙している。マコトのお母さんが授業参観に来るのを防ぐために二人で作戦を遂行するし、ゴンじろーの大好きな焼きそばパンを先生から奪うために一緒に変装して机ごと盗もうとする。

 そこに生まれるのは、友情だ。

 というよりも、友情を起点とした関係性を、この「世界への対峙」という構造が補強しているといえる。

 

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 「ほっと毛ねぇな!」というゴンじろーの口癖(決め台詞?)からもわかるように、マコトが直面する日常的な不便さを、ゴンじろーの能力によって解決するという構図。これだけだとゴンじろーはヒーローの立ち回りと同じなのだが、決してそう(一方的に恩をつくる関係)ではない。ゴンじろーはマコトに「ボタンを貰った恩」がある。

 ただ、これはただの口実のようにも見えるし、ボタンを貰ったのもマコトの意志ではなく、これだけだと二人の関係は偶然性の高いものになる。

 しかしそうではない。ゴンじろーのマコトに対する負い目というのは、実は「その能力を使って迷惑をかけられる」という「わがまま性」なのだ。

 そして迷惑とは、ギャグである。

 関係性を排除してギャグに徹するのではなく、ギャグを梃子(てこ)とした関係性を描いているのだ。

 しかし、決して「共犯関係」ではない。共犯関係、つまり互いの利害のために共にいるのではなく、友情や人情の他にはほぼ無条件で一緒にいる。

 

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 「けだまのゴンじろー」はコロコロでも漫画として連載しているんだけど、その作者のながとしやすなりは、まさにそういう関係を描く。僕が小さいころに読んでいた「ゴロロ」も、けだまのゴンじろーと同じ作者なのだが、やはりこういった無条件の友情が描かれていた。

 

 ついさっき電子書籍で買って読んだんだけど、ゴンじろーがマコトの家に住みたいと駄々をこね、勝手に家に入って散々迷惑をかけた後に、お母さんに見つかってしまいマコトが言った、

「た、たしかにヘンなヤツだけど…、友達なんだ。おこづかい、なくていいから、ウチにおいてやってよ!!」

というセリフは、まさにこの作者の特徴だ。展開の破綻やアイデンティティの不一致が現れる条件が、自己利益を契機としたギャグではなく、友情の遂行にある。

 

 

 これがアニメにおいては、

ゴ「うおー!なんか良い方法ないかー!?」

マ「おまえ…なんでそこまでやってくれんだデ?」

ゴ「なんかわかんねーけど、とにかくほっと毛ねーんだよ!」

 に表れている。

 

 

脚本はアニメと漫画、どっちが先なんだろう。

 

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 というわけでいろいろ小難しいことを書きましたが、とにかく僕は、二人の関係性が最高で、ゴンじろーは可愛くて、ギャグも面白いよってことを言いたいんです。

 

 これからも応援してます。

 

 追記:漫画の絵柄すごく可愛いので見てください。

けだまのゴンじろー 1 限定ボタン付き | ながとしやすなり | 【試し読みあり】 – 小学館コミックcomics.shogakukan.co.jp