優しいコント!チョコレートプラネット「天使」感想
優しいぞ!このコント。
マツエルの痛いのが治りますように、もそうだけど、地位も名誉もなんでも手に入るんだったら、30本くらいひきちぎっちゃうでしょ。他人の痛みにたいして共感性の高い人間なのか。欲のない人間なのか。
自分みたいな欲深な人間にしてみれば、最後の「30本ひきちぎっちゃってください」に対する「いや無理―!」はピタッとくるツッコミじゃないし、だからオチとしてもあまり機能していない。だがそこが良い!
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ボケが無理なお願いをしてツッコミが拒否する、みたいなネタっていろんなところで見たことがあるけど、その拒否のスイッチが「良心」とか「同情」であるケースって珍しいんじゃないかな。「可哀そうだからできない!」ってことでしょ。
僕がいままでみてきたコントでは、ツッコミ側の拒否スイッチが
- 「自己防衛」
- 「欲に反する」
- 「常識から逸脱している」
といった自分本位のものや、
- 「物理的に不可能」
っていうのが多かった。
でも、その無理なお願いも、ボケ側からすれば切実な願い、もしくは強迫的で自制が不可能な欲求であったりする。(ボケである以上、自分をメタ的視点に置くことが許されない、ともいえる。)
観客としてはツッコミに感情移入して笑うわけだけど(ツッコミに優位性がある)、もっとコントを物語的に見てみると、問題はボケ側じゃなくて二人の間の齟齬にあったりする。
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僕の好きなジャルジャルのコント「めっちゃ練習する奴」は、福徳のキャラが強迫的にショートコントの練習を要求する、それを後藤のキャラが拒否するという設定だ。
そのショートコントの練習は朝の4時から夜6時までやっていて、それが数か月続いている、しかもネタもよくわからない。この状況は明らかに常識から逸脱しているので、観客としては後藤側に感情移入し、そのツッコミに笑う。でも福徳側からすれば、
「なんで練習しないの?俺ネタ一生懸命書いてるのに!」
と心の底から思っている。だから、観客という外部ではなくその内部からみると、本当に問題なのは二人の間の価値観の違いなのだ。コントの世界観が客から独立していて、実際に存在するのは舞台の二人だけだといういわゆる「第四の壁」を考慮に入れれば、尚更そうだ。
ジャルジャルのコントがすごいのは、このあと立場が逆転するということだ。後藤のキャラが、復讐するかのごとく自ら常識を逸脱し、それと同調するように福徳のキャラに強いる。おそらく無意識にだが、ツッコミ優位性の構造を暴き、転倒させている。
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チョコレートプラネットの「天使」の場合、まずそのスイッチが普通と異なる。ボケの天使は、その発言や行動がところどころ常識から逸脱している上に、天使とはいえ人外なので、非常に共感を起こしにくい。ただ痛みだけを人間と共有している。この共有された痛みは、個人的にはあまりひっかかるところではなかったが、長田のキャラからするとかなり「ツッコミたい」部分だったみたいだ。しかも、良心と共感を(無意識にも)そのスイッチとして。
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僕はチョコレートプラネットのこういう、舞台上の人物の価値観と観客の価値観がズレているコントが大好きだ。舞台が一つの世界として独立しているコントが大好きだ。
共有されていることが前提とされたある価値観を基にした笑い(ツッコミが極めて常識的な笑い)はわかりやすいし客席の一体感も生まれるんだけど、裏を返せば、その一般的な価値観の共有が笑いの参加条件として求められているというわけだ。非常識なボケを笑うには、常識が必要だ。僕にはそれが荷重に感じてしまうときがある。キャラクターたちの世界で、勝手にやってくれ、と思う。結局それが一番面白いし。
こういう作品はもっと評価されてほしい。
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そういえばラジオ聴いていても、二人ともあんまりリスナーとかファンに合わせようとしないところがある。たぶんこの辺に、価値観の共有を求めない笑いの根っこがあるんじゃないかと思うんだけど。自分の面白いと感じることを信じる!っていうほど緊張感はなくて、良い意味でドライなのだ。コントからも、少なくともネタを書いている長田さんは、どちらかというと人間関係その他に対して(実際の交友関係とは別に)冷めている方なんだろうな、と感じさせるところがある。人情みたいなのをあからさまに表出させようとしない。人情的なコントっていうのは具体的には、ラーメンズの「やめさせないと」、かが屋の「イヤホン」とかがそういうイメージ。それぞれの良さがある。この二つはめちゃめちゃ好き。
「親父」はだから、ちょっと珍しいなと思った。
松尾さんが芦田愛菜みたいな話し方をするくだりとか、ケロケロけろっぴでリズム刻んじゃうくだりとか、あれはアドリブなのかな。だとしたら、あそこまでアドリブを加えるのはなんかあるんじゃないかって思う。そういえば、型とか言葉遊びによってもっと深いところにある「恥」を隠そうとするっていう千葉雅也の論を思い出す。
いいえ。純粋な言葉遊び、韻律の面白さ、非人間的な言葉の操作に徹することこそが、自分が存在するということの根源的な恥ずかしさに対する防御なのです。僕は詩歌を感情の発露とは捉えていません。僕はむしろ言葉の操作それ自体に関心があり、言葉の操作それ自体こそが根源的恥と関係している。 https://t.co/GmQDOCP7bU
— 千葉雅也『アメリカ紀行』予約開始 (@masayachiba) May 19, 2019
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根源的な恥という話とはまた別で、一概には言えないし深読みしすぎだとは思うけど、松尾さんの方ももしかしたらああいう人間臭いやりとりに実はちょっと抵抗があったりするのかな。二人が喧嘩しないっていうの、笑いの価値観もそうだけど、このあたりも大きい気がする。人との接し方。距離感。
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でも、チョコプラは動画とか見てると、平均的なコンビより絶対に仲良い(いろんな関係性があるので、一概に良し悪しで判断することはできないが便宜上)と感じるんだけど、それって変なことだ。人に対して比較的ドライな二人が、なんの疑問もなく情を語るような他のコンビたちよりも仲が良いって。
多分、お互いの情とか譲歩じゃなくて、純粋な相性の良さと価値観の一致で成り立っているコンビ。そりゃ喧嘩しないでしょ。でもだからこそ、お互いの違うところにはかえって目がいくこともあるのかも。外野がこれ以上言うのは野暮だからやめるけど。
とにかく言えるのは、二人のコントは本当に二人じゃないと成立しないということ。
(筆者撮影)