コントへ捧げるラブレター

主にDVDで観たコントの感想を書きます

やってみたいな、ゾウリムシすくい。【チョコレートプラネット「ゾウリムシすくい」感想~】

 

 やってみたいな、ゾウリムシすくい。ロマンだよ。

 

 コントとしても面白かったけど、お笑いということを差し引いても、この世界観はめっちゃ良い。晩夏の寺の脇の木陰で、こんな屋台があったらな……とわくわくする。

 

 僕は、足踏まれ小僧とかゾウリムシすくいとか、土着というか、どこか日本的な郷愁のあるコントがなんか好き。そういえば、長田さんは京都府出身だったっけ。

 

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 ゾウリムシをすくう、つまり目にみえないものをつかまえようとするその行為には想像力が必要だ。しかも、その成功率は謎のルール(「履くぞー」「ナイキだぞー」「エアーも入ってるぞー」などの呼びかけ)に委ねられているらしく、それに従うのにも、また異なる質の想像力が必要となる。

 

 解釈じゃなくてただの例えなんだけど、このゾウリムシすくいは神様にお参りするのと似ている。お参りには、信仰におけるステップが二つあって、

 

①神様の存在を信じる

②心の中で願いごとを唱えるというはたらきかけをし、そのフィードバックを期待する

 

 そして②は、①なしには成立しない。神様を信じなければ、はたらきかけようという発想は生まれない。これをゾウリムシすくいの場合で言うと、

 

①桶のなかにゾウリムシの存在を信じる

②ゾウリムシへ呼びかけるというはたらきかけをし、そのフィードバックを期待する

 

 桶の中に、という物理的な空間の限定があるとはいえ、構造はやっぱり似ているのだ。

 

 ゾウリムシすくいに対して僕の感じたノスタルジーは、単に「屋台」「理科の授業で習った」「ゾウリムシ」「顕微鏡」「おじちゃんと小学生」などというディテールのレベルではなく、わらべうたが体に染みついているみたいに、心に染みついた日本人の信仰によってひきおこされた、ともいえる。

 

 いやいや、そんな解釈しなくたって、ネタそれ自体で面白いし、こんな大きな話にするのもちょっと野暮なことだよ。

 

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 おじさんが最後に逮捕されちゃったの、悲しかったな……。おじちゃんが詐欺やってたかどうかはともかく、二人のあの感情と、あの場で成立していた神秘的な場っていうのは、ふやけた焼きそばや真っ赤なりんご飴よりも、よっぽど本物だったはずなんだよ。という感情移入。

 

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 まあ……300円は高いよね。この子よくスッと300円出せるなーと思ってたけど。

 

 キャラを小学生にあんまり寄せようとしないの良いよね。

 まあツッコミ側だからキャラを弱めたっていうのもあったかもしれないけど。

 あどけないわけでもなく、大人の非合理を叫ぶタイプ(うしろシティの「自転車」にでてくるみたいな)でもなく、普通にゾウリムシすくいの世界に入っていっちゃう。純粋すぎて騙されている!って感じでもなく、ただゲームを楽しんでる。「楽しかったからまた来るね!」って……

 

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 あと単純に、舞台上のモニターに微生物が映しだされる状況、面白すぎる。

 

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 こんなこと書いてる間に、チャンネル動画あがってんじゃん。観なきゃ。

 

youtu.be

 

 企画もする。

 

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 コントの自由さが好き、みたいなのをインタビューで読んだ気がするけど、それは完全な自由というより、台本という制限を作った中でいかに自由に遊ぶか、という発想が根本にある気がする。

 しかしその遊び(アドリブ)だって表現である以上、どこかで中断する必要が生じる。そうでないと、コントの世界は無限に拡がり、脱線し、もはやお笑いとして「みせる」必然性を失う。(「飛田勇のテニスレッスン」「意識高い系棟梁」はその一歩手前で留まったという感じがする。アドリブというか会話メインで作ったのかな)

 

 その拡張を、ある種の「こだわり」によって世界を固定させるのではなく、時間制限に任せてしまう。拡張し脱線して生まれたものの全てが大きな価値を持っているため、時間制限に中断を任せざるを得ない、ともいえるだろう。

 

 台本作成においても、拡張と脱線を止めるときが必ず来る。チョコプラのコントは全体構成があってディテールを詰めていくというより、ディテールの連想の累積が作品の形となっている。だから、オチが伏線回収になるようなコントはなく、ここでもこだわりによる中断はなされていない。オチをどうやって決めているのか、どこまで膨らませていくのかの判断が何に依っているのかは気になるところ。

 

 5分ラジオ、6秒クッキング、そして今回の即絵は、コントのなかのアドリブと同じ発想なのだと思う。遊ぼうと思えば遊び続けられるが、あえて形にするために時間というギロチンを使う。その切断面の粗さを笑う。

 

 ただ、もっと長い時間をかけて、無限に増幅し脱線し、客観的視点が完全に無化する(客・視聴者が全くついていけなくなる)ところまで見てみたい、とも思うけれど。