「けだまのゴンじろー」11話感想 寝ながらポテチを食べたのはなぜ?
ついに二連続でゴンじろーの話だ!ブログタイトル変えようかな。
けだまのゴンじろーが新世代のコメディだなと感じるのは、関係性の描き方のかもしれない。脚本も演技も絵もそのへんをかなり丁寧に表現していると思うんだけど……駄目だ長くなるからまたブログにまとめよう
— とげとげ仔猫 (@togetoge_koneko) June 15, 2019
ツイッターのほうが人目につくっていうのもあって、できるだけツイッターで感想を書きたいんだけど、無理だった。好きなところが多すぎるし、それがなぜ好きかっていうのも気が済むまで語りたい。そんな僕の欲求と理屈っぽさを許してくれるブログの心の広さに感謝しつつ。
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土曜日は東京おもちゃショーに行っていたので、リアルタイムで観れなかったけど、家に帰ってきてからあにてれで視聴した。
気になったところを反復できるし、ちょっと感受性が小爆発を起こしたときに一時停止して心を落ち着かせられるので良いですね。今後はリアルタイムとあにてれの二刀流でいきたいと思います。DVDとかでたら三刀流。これでウォーターセブンにいってもカクに勝てるぞ。(ONE PIECE、次巻は7月の最初に出るらしいですね。早く読みたいな)
前回は「論じたい!」って思って書いたので硬い文章になりましたが、今回は「語りたい!」って欲があるのでゆるめに書く。
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「すげーぞ毛リュウケン」
・30年前のカンフーアクション映画て。マコトくん、趣味が渋いな。
・映画を観てるときにはイマイチな反応だったゴンじろーが公園にシーンになったらゴリゴリのファンになってる。この展開になるなら、最初からもっと興味を持っていた方が自然だけど、敢えてそうしなかったのは、描かれていない部分になにかストーリーがあるってことなんだろうな。映ってないところでもちゃんとマコトとゴンじろーの日常が存在しているのを感じさせる描写でした。二人でアクションスターごっこしてるの微笑ましい。
・「こいつはひでえ!壁いっぱいにうんこを描いて……」の描き方。普通だったら(というか素人の僕だったら)歩いているところを横から撮って、そのバックにある壁を見せると思うんだけど。壁をメインに描きながら、町中を歩くゴンじろーたちを透明に重ねる表現になってる。アニメとか映像は詳しくないからなんとも言えないけど、素人目にも「へーこういう見せ方があるんだ」って勉強になった。
・「チキンだチキンだ!」」「わっしょいわっしょい!」この無邪気さ。
・「マコト…あれ、頼む」この心底頼ってる感じ。
・おそうじ拳奥義・猛烈毛龍拳、カッコよすぎません?コメディにおけるバトル描写って最高ですよね。でんぢゃらすじーさんが長編だとボロボロになって戦うみたいな。ボーボボで首領パッチが怒んパッチになってめちゃめちゃカッコよくなるみたいな。伝われ~。
・「これ、絶対オイラたちの影響だろ…!」オイラ「たち」って言うのが良い。傍目から見たらゴンじろーの手柄だけど、本人からしたらちゃんとマコトとプーじろーも含んでいるってことなんだろうね。
・「でもこれで、また本物のモアッチャ~が聞けるんだね!」本物のモアッチャ~聞きたかったっていうマコトの願望は無事に成就。
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「もうそうがぼうそう?」
・すげえ斬新だった。話にしても描写にしても。またひとつ、このアニメの可能性が拡がった。
・妄想だからなんでもアリ!っていうの、謎のポリシーめいたものを感じました。力強いお言葉。
・せっかくの日曜日なのに外に出かけられないなんて、つまんねーなー」に対するマコトの「ゴンじろー濡れたら大変なことになっちゃうだろー」の言い方に『情』を感じた……。ここ、妄想の中でゴンじろーが海にはいる前の伏線になってるんですね。
・マコト「って、寝ながらお菓子食うな!その手で漫画読むな!」
ゴンじろー「マコトがこうるさいな~新築のアパートの大家さんくらい、こうるさいな~(しみじみ)」
このへんのやりとり。ギャグの形式に上手く落とし込んでるけど、こういう日常的なやりとりの描写が極めて絶妙だ。なんなら、「雨で遊びに行けない…」っていうくだりからすぐに妄想の展開にしたって問題はないだろう。寝ながらポテチを食べたことの意味とは。敢えてこういうシーンを挟むことで、もちろん、展開の転回する前にワンクッションいれるっていう目的もあるだろうけど、関係性の描写として決して無意味じゃないはずだ。
いやー改めて考えると、部屋で寝ながらポテチを食べる、その手で漫画を読む、それを指摘する…っていう一連のやりとりはたまんないですね。関係性を端的に表すのに、これ以上最高な表現ってある?
・ここからの展開がすごすぎる。妄想の世界に……妄想!?
ツイッターでも書いたけど、妄想はあくまで日常的な行為。「身近にいてほしい存在」としてのゴンじろーは、いくらハチャメチャなことやっても人間のマコトとの生活から離れることはない。身近にいてほしい存在がちゃんと身近にいる。
けだまのゴンじろー、ついにメタ技法まで…!
— とげとげ仔猫 (@togetoge_koneko) June 15, 2019
別世界(妄想の世界)にいることを表現するのに絵のタッチを変えるっていうのは斬新ですね。
あくまで妄想っていうのも良い。日常性を欠くことなく可能性を拡げる。そして日常性とは現実世界との距離感の近さだから、僕たちの身近な存在として感じられる。
そもそもゴンじろーは「身近にいてほしい存在」として描かれていると思うので、そうなってくると日常性や実在感っていうのは大事だろうな。ドラえもんの人間味と同じで。また非日常といっても完全なファンタジーではなく日常ハッキングだ。手応えのあるロマン。そして安心感。 #けだまのゴンじろー
— とげとげ仔猫 (@togetoge_koneko) June 15, 2019
ツイートで日常ハッキングって造語を使ったのですが、僕は表現のありかたとしてそういうのがすごく好きで。完全なファンタジーよりも、ファンタジーの現実性(ゴンじろーの人間味)と、現実のファンタジー性(マコトの直面する様々なトラブル)が同時に作用しあって、観ている僕たちの生きている現実世界そのものを揺さぶる、そんなのが好き。
学校に行くのが面倒で「どこでもドア欲しい~」って言うのはまさに日常ハッキングの結果なんだけど、やっぱりそのためにはドラえもんは別次元にいちゃだめで、のび太の部屋の押し入れで寝ていなきゃいけない。身近な存在がちゃんと身近にいるとは、例えるならそういうことだ。
・キモい人魚、なんなんだ?どちらかというと魚人かな。妄想の世界とはいえこいつだけは制御できないんだな。
・ゴンじろーの英語の喋り方。「oh.thank you.」→「オオ~ゥ、ズァンキュウ~ゥ」。この演技。
・妄想の世界の描写としてただでさえタッチが変わってるのに、さらにアメコミ風になるって。メタにメタの重ね塗り。本当に土曜朝アニメか?これ……。
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・けだまだけチャンネル。マコトくんの舌打ち。
・「けだまのゴンじろーは動物番組」。初めて知った……!ダーウィンが来た!、志村どうぶつ園、けだまのゴンじろー。自然の摂理。ごもっともです。
・僕もなんかHPからおたより出してみようかな。
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気づいたら2000字を突破してる。本当はもうちょっとツッコみたいところもあったんだけど、もう言い出したらキリがないな。
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アプリ。クオリティが高い。難易度調整もなかなか。
↑playストアの説明概要欄より
形が変わると(ムキムキだったりビリビリだったり)と声も変わるのが良い。
アニメ「けだまのゴンじろー」から見る、ギャグ漫画におけるキャラクターの関係性
今日はコントじゃなくてギャグ漫画の話。
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先週(6月1日)、初めて観たアニメ「けだまのゴンじろー」。
純粋にギャグアニメとして面白かったので、今日(6月8日)も10時すこし前からテレビの前で待機して、観た。
プリキュアみたいな変身シーンとか、怪しいおっさんが何度も変装マスク剥がすところとか、糸電話を無線にみたてて話すところとか、もう文字にしたら勿体ないくらい面白かった。
(↑あにてれで配信してる)
どうやらこのアニメ、ソニーの子供向けプロジェクトの一環として、コロコロ編集部とタッグを組んで作っているものらしい。どうりで映像も凝ってるわけだ。
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小学生の頃、兄が買ってきたコロコロを借りて読んでいた。
でんぢゃらすじーさん、ケシカスくん、スーパーマリオくんは今も連載しているらしい。
コロコロのギャグ漫画は本当に寿命が長い。ジャンプだと単行本二〇巻くらい連載するとギャグ漫画(コメディ)としては長いほうだ。ちなみにギャグマンガ日和が15巻、ピューっと吹く!ジャガーが20巻。一方、スーパーマリオくんは現時点で54巻まで出ているんだとか。すげえな。
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ギャグ漫画って、ツッコミキャラとボケキャラの関係性をどう解釈すれば良いのかわかりにくいところがある。
特にコロコロにおいては、
「非常識でなにを考えているかわからず(絶対的天然性)、時には人間ですらないボケのキャラクター」
と、
「常識的で読者目線に立ったツッコミのキャラクター」
の二人が主人公として登場し、前者が後者を「対象化」することで成り立たせているものが多い。
というか基本的に、そうでないとギャグ漫画は成立しない。ボケが絶対的天然性を失えば、つまりわざとボケているものとして描けば、ギャグ漫画としての世界観がぼやけてしまって、なんのためにボケているのかわからなくなる(敷いて言えば、かまってちゃん?)。
そうでなければ、読者を意識して、読者のためにわざわざボケていることになり、それは、登場人物(を描く作者)が読者よりも優位に立っているという構図をうみだす。そんならもう、僕たちはギャグで笑えない。ばかばかしいねって笑ってたけど、笑われてるのは僕らのほうだった、って。
だから、キャラクターどうしの関係性をしっかり描こうとすると、それは「シリアス回」になる。でも来月からはまた何事もなかったかのように、ツッコミキャラの迷惑なんて知ったこっちゃないという風に、破天荒に振舞うボケキャラ。アイデンティティの一貫性に欠けるのもギャグ漫画の特徴だ。
ギャグ漫画の二次創作が比較的少ない理由は、単に素人(=読者)には作者のようなギャグが思いつかないというだけではない。ボケの行動が一貫しなさ過ぎて、可能性に充ち溢れすぎていて、逆に想像がしづらいのだ。
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そして「けだまのゴンじろー」の話。
この作品は、ボケ(ゴンじろー)とツッコミ(マコト)という構図を踏襲している。しかし通常と異なるのは、基本的に二人が同じベクトルを向いている、というところだ。
(↑やじるしが大きいのは、能力=可動性による干渉力の高さを表す)
つまり、「けだまのゴンじろー」においては例外的に、ツッコミとボケが対峙しているのではなく、ツッコミとボケが(日常的かつ非合理的な)世界と対峙している。マコトのお母さんが授業参観に来るのを防ぐために二人で作戦を遂行するし、ゴンじろーの大好きな焼きそばパンを先生から奪うために一緒に変装して机ごと盗もうとする。
そこに生まれるのは、友情だ。
というよりも、友情を起点とした関係性を、この「世界への対峙」という構造が補強しているといえる。
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「ほっと毛ねぇな!」というゴンじろーの口癖(決め台詞?)からもわかるように、マコトが直面する日常的な不便さを、ゴンじろーの能力によって解決するという構図。これだけだとゴンじろーはヒーローの立ち回りと同じなのだが、決してそう(一方的に恩をつくる関係)ではない。ゴンじろーはマコトに「ボタンを貰った恩」がある。
ただ、これはただの口実のようにも見えるし、ボタンを貰ったのもマコトの意志ではなく、これだけだと二人の関係は偶然性の高いものになる。
しかしそうではない。ゴンじろーのマコトに対する負い目というのは、実は「その能力を使って迷惑をかけられる」という「わがまま性」なのだ。
そして迷惑とは、ギャグである。
関係性を排除してギャグに徹するのではなく、ギャグを梃子(てこ)とした関係性を描いているのだ。
しかし、決して「共犯関係」ではない。共犯関係、つまり互いの利害のために共にいるのではなく、友情や人情の他にはほぼ無条件で一緒にいる。
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「けだまのゴンじろー」はコロコロでも漫画として連載しているんだけど、その作者のながとしやすなりは、まさにそういう関係を描く。僕が小さいころに読んでいた「ゴロロ」も、けだまのゴンじろーと同じ作者なのだが、やはりこういった無条件の友情が描かれていた。
ついさっき電子書籍で買って読んだんだけど、ゴンじろーがマコトの家に住みたいと駄々をこね、勝手に家に入って散々迷惑をかけた後に、お母さんに見つかってしまいマコトが言った、
「た、たしかにヘンなヤツだけど…、友達なんだ。おこづかい、なくていいから、ウチにおいてやってよ!!」
というセリフは、まさにこの作者の特徴だ。展開の破綻やアイデンティティの不一致が現れる条件が、自己利益を契機としたギャグではなく、友情の遂行にある。
これがアニメにおいては、
ゴ「うおー!なんか良い方法ないかー!?」
マ「おまえ…なんでそこまでやってくれんだデ?」
ゴ「なんかわかんねーけど、とにかくほっと毛ねーんだよ!」
に表れている。
脚本はアニメと漫画、どっちが先なんだろう。
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というわけでいろいろ小難しいことを書きましたが、とにかく僕は、二人の関係性が最高で、ゴンじろーは可愛くて、ギャグも面白いよってことを言いたいんです。
これからも応援してます。
追記:漫画の絵柄すごく可愛いので見てください。
けだまのゴンじろー 1 限定ボタン付き | ながとしやすなり | 【試し読みあり】 – 小学館コミックcomics.shogakukan.co.jp
圧倒的な表現力と人間愛を感じました。――――東京03「自慢話の話」
第19回東京03単独公演「自己泥酔」DVDより
「自慢話の話」
う、美しい……。
終わったあと、一時停止して「うおお…良い…」って呟きながら部屋のなかグルグル回っちゃった。
人間観察力と構造の緻密さはいつも通り最高なんだけど、なにが美しいって、物語の持つ再帰性。
「そんな醜い心まで曝け出せちゃう俺、どう?」
「かっこいいっす!」
これは多分、自意識の克服というよりは開き直ってる。
結局、自分に酔うことからは抜け出せない。けれども酔っている自分を引き受けようという覚悟、肯定。
これってもう、一つの人生観じゃん!表現(お笑い)に対する態度じゃん!結果的に、なのかもしれないけど。
この短いオープニングコントでこんなに…こんなに…。
ちなみに物語の持つ再帰性っていうのは角田さん(=社長)の、最初と最後の態度が一貫してるってことで、つまり開き直り。社長の貫禄だ。
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私事なんだけど、このまえ兄と話してる時に、
僕「電車で席譲るのってさ、譲ること自体は全然良いんだけど、声かけたときに『自分はよいことしてます』って思ってるって思われるのが嫌だよね」
兄「だから俺は譲るとき、何も言わずに席を立つことにしてる。『あ、駅に着いたな』って感じで一旦降りて、隣の車両に乗りなおす」
僕「あーわかる。
……でもさ、それって『自分はよいことしてますアピールはしないけど、実はよいことしてます』っていう自己欺瞞があるんじゃないの?」
兄「……」
僕「だからといって、その欺瞞を克服して、声をかけることを選択したら、『自分はよいことしてますアピールはしないけど実はよいことしてますっていう自己満足に陥らないために、あえてよいことをしてます』みたいな循環構造が……」
兄「そんなこと言ったらなんにもできないじゃん!」
っていうことがあった。(改めて文字にすると、僕、めちゃくちゃ理屈っぽくて最悪だな!)
僕はこのときちょっと悪意を含ませて「自己欺瞞」という言葉を使ったんだけど、そうか、自己泥酔か。
「自己泥酔」。自己欺瞞にヒューマニティを加えてまろやかにしたような言葉ですね。良い言葉。愛がある。辞書に載れ!
東京03のコントでは、人間の恥ずかしいところを主に角田さんのキャラクターによって戯画的に表現されているんだけど、全然嫌な感じはしないし、愛おしさすら感じるのは、まさにお茶目な自己泥酔なんだ。このDVDというか公演についている名前だけど、東京03のコントって自己泥酔という言葉で上手く表せる気がする。
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脚本の筋だけをとりだして見てみると、いわゆる「あるある系」っぽい。状況自体は日常生活で「あるある」風景、「いるいる」人間。でも、一般的な「あるある系」とは決定的に違う。
「あるある系」は、実生活で出会う嫌な人間を重ねて、その人が懲らしめられることで溜飲を下げる。いまやっているコント番組「もう少し、嫌な奴。」なんかがそう(いかにもテレビ的な企画ですね)。
脚本の発想自体はこれと似ている。でももう一歩先を行くのが東京03。
東京03のコントでは、実生活の人間に思いを致す余地を残さない。三人のキャラクターが強いからだと思うけど、コントの世界だけで完結しているのだ。コントの独立性。構成された世界をみるというコント自体の構図が生かされている。
さらにすごいのは、角田さんのキャラクターはヘタレで威張り屋なのが多く、普通に考えたら嫌な奴なのに、全然そうは見せない表現力。同じ脚本でも、あそこまで愛嬌のあるキャラクターにできるのは角田さんだけだと思う。というか人間力かな。端的に言って「いい人」。それが、キャラクターを演じていても出ているのだ。
脚本に着目すると、言いくるめられて悪口言われてビンタされて(お客さんに笑われて)、可哀そうにさえ見えてくる。さっき書いたのは身体的な表現力で、こっちは頭脳を使った表現力。
嫌な奴を戯画的に描くことで「そいつが笑われている状況を作り出す」という、まあ言ってしまえば俗悪な笑いから脱却して、
「笑える状況にそいつを放り込んで丸ごと愛してやる」
みたいな気概が見られる。圧倒的な人間愛。これって笑いというよりも文学じゃん。否定的な状況をフィクションとして描くことそれ自体が、似たような現実を肯定するという。お笑い以前に、それって表現者として素晴らしいことなんですよね。
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「エリアリーダー」についても書くつもりが、めちゃめちゃ語っちゃってもう0時を過ぎてしまった。うーん。いくらでも語れるな。
(筆者撮影)
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チョコレートプラネット「見たことない」「エンターテインメントショー」
「見たことない」
だんだんハイになり言語を失っていく見たことないキャラクター、おもしろすぎる。
意識してみれば動きも声も松尾さんでしかないんだけど、普通にみてると松尾さんじゃなくなる。だからといってこういうキャラクターが実在するという感覚も生まれない。見たことないキャラクターは実存と無のはざまに漂っているのである……。
小道具、本当にすごい。特許とれるでしょ。なんか、販売してくれないかな。それか企画のプレゼント的なの。いやしかし、そんな簡単に売ってほしくない、非売品であってほしいという気持ちもあるな。
わらび舞妓ちゃんより、長期的に見ればキャラクターとしてはこっちのがキャッチ―な気もする。可愛くデフォルメしたり……いや、そういうことじゃないんだよな多分。でもおはスタにも出てるし、上手いこと子供向けコンテンツとして昇華されないものか。
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それにしても、まさかおはスタのコーナーになるなんて。「見たことないやつ工作室」、いつも録画して観てます。
コントでは「こっちは見たことないキャラクター」ってお兄さんが説明しているんだけど、番組内では「見たことない君」なんですね。(追記:さっき録画したの見直したら、表記が変わってキャラクターの方になってました。)
見たことないお兄さん「(グルーガンの接着剤を)パンにつけて食べる」
見たことない君「……嘘じゃん!?」
っていうくだりが好き。(先々週だったかな?)あと、
見たことない君「僕、お寿司だ~いすき!」「こんなことやってねえで寿司食いてえなあって」
このときの表情(ほとんど顔でてないけど)がちょっと本音っぽいのが面白かった。
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テレビにでてるお笑い芸人さんって、特に子供向け番組だと、「無理して頑張ってる感」が出るんだけど(実際に無理して頑張っているから)、二人はそういうのが全然ない。呼吸するかの如く茶番にスッと入っていける能力。想像力。ただ、それがテレビ的な部分では裏目に出ている感が無いでもないけれど……。
というのは、テレビで活躍している芸人には、コント師よりも漫才師のほうが多いけれども、それには企画に順応するよりも、企画を適度に切り裂いていく視点が芸人に求められているところがある気がする。世界観の構築よりも、世界観の破壊が。
能力ではなく、向き不向きの問題だ。逆に言えば、テレビ的な破壊が向いていないというのは、コント師としての適性が抜群にあるともいえる。
ただヒルナンデスといった主婦向けコンテンツ、おはスタみたいな子供向けコンテンツでは企画が第一なので、チョコプラは向いていると思う。毎週観れるの嬉しいな。
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「エンターテインメントショー」
氷室病院といい、動きが綺麗な長田さん。体型もあってか本当にパフォーマー感がある。
「くだらねぇー!」のツッコミでなんかすごい笑っちゃった。心の底から言ってる感じがして。
素人の僕がもし、エンターテインメントショーのネタをつくるとしたら、扱えるネタが沢山あるじゃん!と思ってマジックやらトランプやら詰め込みたくなるけど、「鳩」と「箱に剣刺し」の二つでここまで面白くなるんだな。
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漫才もコントも、ひたすら手数を多くするのって確かに笑いやすいしあんまりハズレないけど、こういうフォーマット自体の良さをいかに残すかって大事だと思う。
台詞やボケの内容といったソフト面ではなく、世界観や形式といったハード面を重視するタイプのコントが僕は好き。後者のほうが思想や生活や身体的なリズム、つまりはネタをする本人らしさがよく出ている気がするから。
形式が斬新すぎると舐めているとか異端だとか思われがちだけど、むしろ対象に真剣に向き合った結果である場合が多い。マヂカルラブリーもかなり変わった漫才だと思うけど、野田さんはきっとお笑いに対して真面目な人なんだろうなあと感じる。
『キングオブコント2019』大爆笑連発の開催決定会見!!!【TBS】
松尾さんが思い出す度に催眠をかけようとする長田さん。これ、記憶喪失してるのは松尾さんの方で、長田さんは思い出させないようにとぼけてる、って構図が(結果的に)できてる。
マヂカルラブリー、応援しています。幕張で観た「オーロラ」の漫才が衝撃的だった記憶。客層がファミリーと老夫妻が多いのもあって、あんまりウケてなかったが……。
5位て。ラバーガールもDVDの副音声だったかインタビューだかで、「優勝は無理だからとりあえず決勝にいきたい」みたいなこと言ってたな。チョコプラも、「売れるための手段」とか言ってた。コント師は基本的にそういうところ冷めてるんだろうか。コントの能力と漫才の能力の違いを生むのは、性格的な部分も大きいんだろうな。コントは世界観の創造で、それは現実世界に対して程よく冷めてる、距離が取れる人の特権だ。
その「浮いた世界に2人(3人)だけ」っていうのが、僕の感じるコントのロマン。
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やってみたいな、ゾウリムシすくい。【チョコレートプラネット「ゾウリムシすくい」感想~】
やってみたいな、ゾウリムシすくい。ロマンだよ。
コントとしても面白かったけど、お笑いということを差し引いても、この世界観はめっちゃ良い。晩夏の寺の脇の木陰で、こんな屋台があったらな……とわくわくする。
僕は、足踏まれ小僧とかゾウリムシすくいとか、土着というか、どこか日本的な郷愁のあるコントがなんか好き。そういえば、長田さんは京都府出身だったっけ。
―――
ゾウリムシをすくう、つまり目にみえないものをつかまえようとするその行為には想像力が必要だ。しかも、その成功率は謎のルール(「履くぞー」「ナイキだぞー」「エアーも入ってるぞー」などの呼びかけ)に委ねられているらしく、それに従うのにも、また異なる質の想像力が必要となる。
解釈じゃなくてただの例えなんだけど、このゾウリムシすくいは神様にお参りするのと似ている。お参りには、信仰におけるステップが二つあって、
①神様の存在を信じる
②心の中で願いごとを唱えるというはたらきかけをし、そのフィードバックを期待する
そして②は、①なしには成立しない。神様を信じなければ、はたらきかけようという発想は生まれない。これをゾウリムシすくいの場合で言うと、
①桶のなかにゾウリムシの存在を信じる
②ゾウリムシへ呼びかけるというはたらきかけをし、そのフィードバックを期待する
桶の中に、という物理的な空間の限定があるとはいえ、構造はやっぱり似ているのだ。
ゾウリムシすくいに対して僕の感じたノスタルジーは、単に「屋台」「理科の授業で習った」「ゾウリムシ」「顕微鏡」「おじちゃんと小学生」などというディテールのレベルではなく、わらべうたが体に染みついているみたいに、心に染みついた日本人の信仰によってひきおこされた、ともいえる。
いやいや、そんな解釈しなくたって、ネタそれ自体で面白いし、こんな大きな話にするのもちょっと野暮なことだよ。
―――
おじさんが最後に逮捕されちゃったの、悲しかったな……。おじちゃんが詐欺やってたかどうかはともかく、二人のあの感情と、あの場で成立していた神秘的な場っていうのは、ふやけた焼きそばや真っ赤なりんご飴よりも、よっぽど本物だったはずなんだよ。という感情移入。
―――
まあ……300円は高いよね。この子よくスッと300円出せるなーと思ってたけど。
キャラを小学生にあんまり寄せようとしないの良いよね。
まあツッコミ側だからキャラを弱めたっていうのもあったかもしれないけど。
あどけないわけでもなく、大人の非合理を叫ぶタイプ(うしろシティの「自転車」にでてくるみたいな)でもなく、普通にゾウリムシすくいの世界に入っていっちゃう。純粋すぎて騙されている!って感じでもなく、ただゲームを楽しんでる。「楽しかったからまた来るね!」って……
―――
あと単純に、舞台上のモニターに微生物が映しだされる状況、面白すぎる。
ーーー
こんなこと書いてる間に、チャンネル動画あがってんじゃん。観なきゃ。
企画もする。
ーーー
コントの自由さが好き、みたいなのをインタビューで読んだ気がするけど、それは完全な自由というより、台本という制限を作った中でいかに自由に遊ぶか、という発想が根本にある気がする。
しかしその遊び(アドリブ)だって表現である以上、どこかで中断する必要が生じる。そうでないと、コントの世界は無限に拡がり、脱線し、もはやお笑いとして「みせる」必然性を失う。(「飛田勇のテニスレッスン」や「意識高い系棟梁」はその一歩手前で留まったという感じがする。アドリブというか会話メインで作ったのかな)
その拡張を、ある種の「こだわり」によって世界を固定させるのではなく、時間制限に任せてしまう。拡張し脱線して生まれたものの全てが大きな価値を持っているため、時間制限に中断を任せざるを得ない、ともいえるだろう。
台本作成においても、拡張と脱線を止めるときが必ず来る。チョコプラのコントは全体構成があってディテールを詰めていくというより、ディテールの連想の累積が作品の形となっている。だから、オチが伏線回収になるようなコントはなく、ここでもこだわりによる中断はなされていない。オチをどうやって決めているのか、どこまで膨らませていくのかの判断が何に依っているのかは気になるところ。
5分ラジオ、6秒クッキング、そして今回の即絵は、コントのなかのアドリブと同じ発想なのだと思う。遊ぼうと思えば遊び続けられるが、あえて形にするために時間というギロチンを使う。その切断面の粗さを笑う。
ただ、もっと長い時間をかけて、無限に増幅し脱線し、客観的視点が完全に無化する(客・視聴者が全くついていけなくなる)ところまで見てみたい、とも思うけれど。
優しいコント!チョコレートプラネット「天使」感想
優しいぞ!このコント。
マツエルの痛いのが治りますように、もそうだけど、地位も名誉もなんでも手に入るんだったら、30本くらいひきちぎっちゃうでしょ。他人の痛みにたいして共感性の高い人間なのか。欲のない人間なのか。
自分みたいな欲深な人間にしてみれば、最後の「30本ひきちぎっちゃってください」に対する「いや無理―!」はピタッとくるツッコミじゃないし、だからオチとしてもあまり機能していない。だがそこが良い!
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ボケが無理なお願いをしてツッコミが拒否する、みたいなネタっていろんなところで見たことがあるけど、その拒否のスイッチが「良心」とか「同情」であるケースって珍しいんじゃないかな。「可哀そうだからできない!」ってことでしょ。
僕がいままでみてきたコントでは、ツッコミ側の拒否スイッチが
- 「自己防衛」
- 「欲に反する」
- 「常識から逸脱している」
といった自分本位のものや、
- 「物理的に不可能」
っていうのが多かった。
でも、その無理なお願いも、ボケ側からすれば切実な願い、もしくは強迫的で自制が不可能な欲求であったりする。(ボケである以上、自分をメタ的視点に置くことが許されない、ともいえる。)
観客としてはツッコミに感情移入して笑うわけだけど(ツッコミに優位性がある)、もっとコントを物語的に見てみると、問題はボケ側じゃなくて二人の間の齟齬にあったりする。
ーーー
僕の好きなジャルジャルのコント「めっちゃ練習する奴」は、福徳のキャラが強迫的にショートコントの練習を要求する、それを後藤のキャラが拒否するという設定だ。
そのショートコントの練習は朝の4時から夜6時までやっていて、それが数か月続いている、しかもネタもよくわからない。この状況は明らかに常識から逸脱しているので、観客としては後藤側に感情移入し、そのツッコミに笑う。でも福徳側からすれば、
「なんで練習しないの?俺ネタ一生懸命書いてるのに!」
と心の底から思っている。だから、観客という外部ではなくその内部からみると、本当に問題なのは二人の間の価値観の違いなのだ。コントの世界観が客から独立していて、実際に存在するのは舞台の二人だけだといういわゆる「第四の壁」を考慮に入れれば、尚更そうだ。
ジャルジャルのコントがすごいのは、このあと立場が逆転するということだ。後藤のキャラが、復讐するかのごとく自ら常識を逸脱し、それと同調するように福徳のキャラに強いる。おそらく無意識にだが、ツッコミ優位性の構造を暴き、転倒させている。
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チョコレートプラネットの「天使」の場合、まずそのスイッチが普通と異なる。ボケの天使は、その発言や行動がところどころ常識から逸脱している上に、天使とはいえ人外なので、非常に共感を起こしにくい。ただ痛みだけを人間と共有している。この共有された痛みは、個人的にはあまりひっかかるところではなかったが、長田のキャラからするとかなり「ツッコミたい」部分だったみたいだ。しかも、良心と共感を(無意識にも)そのスイッチとして。
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僕はチョコレートプラネットのこういう、舞台上の人物の価値観と観客の価値観がズレているコントが大好きだ。舞台が一つの世界として独立しているコントが大好きだ。
共有されていることが前提とされたある価値観を基にした笑い(ツッコミが極めて常識的な笑い)はわかりやすいし客席の一体感も生まれるんだけど、裏を返せば、その一般的な価値観の共有が笑いの参加条件として求められているというわけだ。非常識なボケを笑うには、常識が必要だ。僕にはそれが荷重に感じてしまうときがある。キャラクターたちの世界で、勝手にやってくれ、と思う。結局それが一番面白いし。
こういう作品はもっと評価されてほしい。
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そういえばラジオ聴いていても、二人ともあんまりリスナーとかファンに合わせようとしないところがある。たぶんこの辺に、価値観の共有を求めない笑いの根っこがあるんじゃないかと思うんだけど。自分の面白いと感じることを信じる!っていうほど緊張感はなくて、良い意味でドライなのだ。コントからも、少なくともネタを書いている長田さんは、どちらかというと人間関係その他に対して(実際の交友関係とは別に)冷めている方なんだろうな、と感じさせるところがある。人情みたいなのをあからさまに表出させようとしない。人情的なコントっていうのは具体的には、ラーメンズの「やめさせないと」、かが屋の「イヤホン」とかがそういうイメージ。それぞれの良さがある。この二つはめちゃめちゃ好き。
「親父」はだから、ちょっと珍しいなと思った。
松尾さんが芦田愛菜みたいな話し方をするくだりとか、ケロケロけろっぴでリズム刻んじゃうくだりとか、あれはアドリブなのかな。だとしたら、あそこまでアドリブを加えるのはなんかあるんじゃないかって思う。そういえば、型とか言葉遊びによってもっと深いところにある「恥」を隠そうとするっていう千葉雅也の論を思い出す。
いいえ。純粋な言葉遊び、韻律の面白さ、非人間的な言葉の操作に徹することこそが、自分が存在するということの根源的な恥ずかしさに対する防御なのです。僕は詩歌を感情の発露とは捉えていません。僕はむしろ言葉の操作それ自体に関心があり、言葉の操作それ自体こそが根源的恥と関係している。 https://t.co/GmQDOCP7bU
— 千葉雅也『アメリカ紀行』予約開始 (@masayachiba) May 19, 2019
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根源的な恥という話とはまた別で、一概には言えないし深読みしすぎだとは思うけど、松尾さんの方ももしかしたらああいう人間臭いやりとりに実はちょっと抵抗があったりするのかな。二人が喧嘩しないっていうの、笑いの価値観もそうだけど、このあたりも大きい気がする。人との接し方。距離感。
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でも、チョコプラは動画とか見てると、平均的なコンビより絶対に仲良い(いろんな関係性があるので、一概に良し悪しで判断することはできないが便宜上)と感じるんだけど、それって変なことだ。人に対して比較的ドライな二人が、なんの疑問もなく情を語るような他のコンビたちよりも仲が良いって。
多分、お互いの情とか譲歩じゃなくて、純粋な相性の良さと価値観の一致で成り立っているコンビ。そりゃ喧嘩しないでしょ。でもだからこそ、お互いの違うところにはかえって目がいくこともあるのかも。外野がこれ以上言うのは野暮だからやめるけど。
とにかく言えるのは、二人のコントは本当に二人じゃないと成立しないということ。
(筆者撮影)